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退 屈 な 人 へ 第25回定期演奏会より 2002.1.12
11月に私の好きな指揮者の一人であるモーシェ・アッツモン指揮・名フィルのコンサートに行った。親子3代に渡ってウィーン・フィルの首席クラリネット奏者を続けているペーター・シュミードルのウェーバーのクラリネット協奏曲1番がお目当だ。
ベルリン・フィルのカール・ライスターとウィーフィルのペーター・シュミードルといえばクラリネットの双璧である。しかも棒がアッツモンとなると私の興味を引かないわけがない。
芸文は地下の駐車場があるから便利だが,あいにく今回は市民会館である。以前もコンサートの時ここの駐車場でドラマが今回も少しばかり。
名古屋市民会館のそばまで来て路駐にしようか有料にしようか,しばらく右往左往して悩んだ。気の小さい私は,駐禁で切符を切られるより,安心な有料駐車場に決めた。ところが空きがなかなか見つからない。時間はどんどん過ぎていく。焦りで汗がでてくる。やっとのことで1台分の駐車スペースを見つけたが,進入禁止でなかなかたどり着けない。時間には変えられぬ,と進入禁止を・・して,めでたく駐車に成功。走って市民会館に向かう。
プログラムを受け取って安い指定席に着く。いつもの芸文とは違い,客席がやけに広い。アッツモンとは数年ぶりである。コバケンが名フィルの音楽監督となってからは初めてである。
1曲目のジークフリート牧歌(R・ワーグナー)は,アッツモンらしく繊細でいて構築性の優れた,真の正統的なドイツ音楽を聴かせてくれた。目当てである2曲目のクラリネット協奏曲への期待が高まる。
大きな拍手に包まれ二人が登場した。驚いたのが譜面台の位置とソリストの向きである。通常は指揮者が見えるよう下手側に位置し,やや上手を向いて演奏するものだが,彼は指揮者側とは反対。つまり,逆向きの下手側を向いて演奏するのである。時折体の向きを大きく変えて指揮者を見る。コンサートマスターがよく見えるからだろうか,私には不自然に映った。
よほど調子が悪かったのだろうか,我が耳を疑いたくなるほどの演奏だった。速いパッセージでは指が転び,タンギングも指と合わない。緩除楽章も今ひとつで,説得力のある歌い方ができない。ただ終楽章になってやっと彼本来の持ち味が出てきて,わずかながらウィーンの香がただよった。
私が知っているマエストロは,どれだけ調子が悪くても観客を落胆させることはない。今回の演奏はオケや指揮者の問題ではなく,彼自身の現在の実力なのであろうか。
オケマンとしては多少調子が悪くても,これまでの経験で,そこそこの演奏ができるのかもしれないが,協奏曲となるとそうはいかないのだろう。超ベテランの彼といえども,それなりの練習を積まないと我々日本人の要求を満たすことはできない。年齢と共に技術は衰えはじめるが,それを経験と日々の努力でカバーする。そのひたむきな日々の努力こそが,我々に大きな感動を与えてくれる源となるのである。その努力を怠って本番を迎えたのであろう。つまり,練習不足だ。
期待して行っただけに失望した。シューベルトの9番は聴く気になれず,プログラム半ばにして帰路についた。
おまけが一つ。私の止めた駐車場は自動支払いのシステムになっていた。千円札を入れてから気づいたのだが,千円札は入っても,お釣りは出てこないシステムだった。たかが1時間の駐車で千円も取られた。コンチクショウと思って,自動機を蹴りたい衝動に駆られたが,足の方が負けそうだったので,やめた。
12月,ウィーン・ヴィルトゥーゾのコンサートに行った。世界的にも有名な室内楽アンサンブルである,らしい。これまでにも室内楽のコンサートに行ったことはあったが,どちらかというと積極的なタイプではない。どうしてもオーケストラやオペラに惹かれ,もしくは指揮者に惹かれて,室内楽からは学生以来遠ざかっていた。もちろん時間的な厳しさもあった。
ペーター・シュミードルのことや,そんなこともあって大きな期待を持つこともなく芸文に向かった。予想通り室内楽という一見マイナーなジャンルだけに満席ではなかった。コバケンがストラビンスキーの春の祭典をやれば演奏の善し悪しに関係なく,すぐに満席となり,ボブ佐久間がポップスをやればいつも大入り。この春日井市民会館でも同じ。中村紘子がピアノソロをやっても客席はガラガラ,五木ひろしが歌えば前売りは完売の満席。
今年から我らが小澤征爾が音楽監督に就任するウィーン国立歌劇場の,しかも首席奏者が集まって室内楽を演奏するというのに・・・。
でも,私も自ら予定を空けてまで無理してこようとは思わなかった。私も含め,日本はまだまだ音楽文化に疎いらしい。
ともあれ,私はウィーン・ヴィルトーゾのコンサート会場にきた。チラシで見たとおりライナー・キュッヒルがコンサートマスターを務めている。キュッヒルといえば親日家としても知られており,春日井でも何度かコンサートを開催し,意外に身近な人である。ちなみに奥様は日本人とか。
客席についてしばらくすると,拍手に包まれてメンバーが入場してきた。全員が笑顔で登場すると,拍手も自然と大きくなる。入場の段階から彼らはコンサートの極意を心得ているようだ。
そして,いよいよ第1曲目である。スッペ作曲・楽劇「フランツ・シューベルト 」序曲という聴いたこともない曲である。プログラムもこんな風だから客席も埋まらないよな,と同伴者とぼやいた。
ところが,キュッヒルのバイオリンで曲が始まるやいなや驚いた。まず第1に楽器が恐ろしく鳴るのである。キュッヒルのリードがあるのかどうかは分からないが,全員(13名)が,うなるように鳴るのである。しかも,キュッヒルのバイオリンや全体から,若々しく,みずみずしい音楽があふれてくるのである。いったい彼らのどこにこれほどのエネルギーが潜んでいるのだろうか,と我が目と耳を疑った。しかも,ダンディーでおしゃれなステキな音楽なのだ,プログラム全10曲が全部そうなのだから,たまらない。
特に4曲目で演奏されたビゼーの「カルメン幻想曲」は,フルートの名手でもあったフランソワ・フェルナン・ボーンのアレンジで,ディーター・フルーリーのフルートソロは,まさに圧巻だった。暗譜で難曲をいとも簡単に涼しい顔で演奏してしまった。伴奏との息も絶妙で,キュッヒルの目立たないが巧みなリードも見逃せなかった。
また,ベルディ作曲バッシ編曲のクラリネット協奏曲「リゴレット・ファンタジー」は45才のエルンスト・オッテンザマーが独奏した。彼も実に見事で,これが世界最高の本物のウィーンのクラリネットか,と心底感動した。技術も音楽も香もパフォーマンスも,これまでの私の常識を覆すに十分な演奏だった。
なるほど,自分の後継者がこれほどの演奏をするのであればペーター・シュミードルもさぞ安心であろう。
プログラム最後はチャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」に続いて,オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」序曲だ。日本ではカンカン踊りで有名な曲である。その中間部での弦を中心とした部分ではホール全体が彼らのオーラに包まれ,これまで体験したことのない何とも表現しがたいとてつもなく大きな,体の底からこみ上げてくる感動に包まれた。その時そこには,彼らと音楽と自分しかない,言葉や国を越えた正に本物の音楽が存在したのだ。
決して自分たちの技術や音楽をひけらかすことなく,永遠の若さと情熱的で懸命な演奏,そして音楽に対する真摯な姿は,会場にいたすべての人の心の隅々にまで響き渡った。これが本物の音楽,これこそ人類が我々に平等に与えてくれた真の音楽だ,と。我を忘れて聴き入っていた時,感動が涙となって頬をつたっているのに気づいた。同時の体中の毛穴という毛穴から不純物が一斉に飛び出し,体が軽くなった。そして元気が湧いてきた。
桐田正章 |